覆水盆に返らず

金髪のまるでアップルパイの縁に余った短冊状の生地を丁寧に隙間なく張り付け、下にだらりと垂らした物を頭に載せたような化粧の濃い女が車高を下げたシルバーメッキパーツの目立つミニバンの助手席に乗り込む。

僕はターボチャージャーの搭載された旧規格の黒い軽自動車で、それを横切ろうとしている。

「なんでこう…世の中で『ヤンキー』とか『キャバクラ嬢』とか世の中から少し外れているであろう人というのは、皆同じ風貌で同じ趣味をしてるのだろうか。」

ギアを四速から三速へ下げ、アクセルを半分ほど踏み込む。

「僕だけは他の人より特別で、あまり世の中にいる人間のカテゴリーには填まらない。変わった人だ。」

四千五百回転ほどのところアクセルを緩めクラッチペダルを踏みギアを四速へ入れ三千回転に差し掛かる頃クラッチを踏むのをやめる。

「でもどうせ僕は世の中には馴染めない。」

いつも車内から眺める人達と自分との隔たりのようなものを考えながらスパルコ製の赤いバケットシートに身を包みパワーステアリングのないハンドルを右に左にと動かしていた。

僕は会社から家への帰路を辿っている。ただの平日のルーティン、記憶に一つも残らない一日の中の後半。

と僕の中の有識者達は満場一致で思いほぼ全員は眠りに就いていたはずだった。

 

いつも車を停めている砕石が敷いてある月額三千円の駐車場まで後一分で着くという時、携帯電話が鳴った。

先日、掛かってきたフリーダイアルの何かよく分からない勧誘だろう。

「今お時間がよろしくないということでしたので、また後日かけ直させていただいてもよろしいでしょうか?」

「ああ…」

「かしこまりました。失礼いたします。」

「ああ…」のあと間髪入れず、了解を得た気になって少し嬉しそうな上ずった声で「かしこまりました。」と言われてしまった。

「お前がちゃんと断らないからだ。はっきりと物を言わないことは失礼だ。」なんて頭の中の有識者の一人が言い、また他の一人が「電話越しにちゃんと聞き取れるように声のキイを上げてはっきりと喋れ。」と言い、僕は気がとても滅入った。

有識者達はいつの間にか「社畜」と言われる人間のように業務を開始していた。業務が生き甲斐の奴らなのだ。

どの有識者達も電話に出るというのが満場一致で決まってるようだった。

僕はそれを無視しようと思った。そうすると有識者達は「良心の呵責スイッチ」なるものを押そうと必死だ。

僕は「そこまで僕をお人好しにしたいのか?」と唱えてみた。有識者達の動きは止まり不服そうな顔で僕を内側から睨み付けていた。まるで有給休暇を繁忙期に取る新入社員でも見るかのように 。

有識者達をあしらいつつも携帯を助手席から取り、着信音を消そうと携帯の音量を下げるボタンに左手の薬指を持っていく。そしてちらりと掛かってきた番号を見る。

 

登録されてない知らない番号だった。

全く身に覚えの無い「080」から始まる番号。


知らない番号からの電話というのは少々心が浮わつく。全く予想のつかないような久しく会ってない友人から電話が掛かってくる。そして昔の記憶が鮮明に噴水のように湧く感覚。それはとても好きな感覚だった。一体誰からだろうと少し期待をし、左から右へ受話器のマークをスライドし耳許に携帯を持っていく。

「もしもし、荒川さんの電話でしょうか?」

口元から空気と共に出てくる音の波が耳許で揺れ動くような感覚に陥った。そんなリアルな感覚のする受話器の音は僕の鼓膜を震わせた。僕の本能と有識者達はコンマ何秒かでその音を検知し、体を強張らせるようにその「強張らせる」部分を司るスイッチを入れた。本能も有識者達も慌てふためいていた。

受話器の音の主は2年前に酷い別れかたをした元恋人だった。

「はい。そうです。」

いつもより低くゆったりとした喋りで緊張を隠そうとした。

「久しぶり。俊也。元気だった?私のこと覚えてる?咲だよ。」

「久しぶり。元気だよ。覚えてる。よく番号分かったね。一年前に番号変えたんだけど。誰かから聞いたの?」

マリコ先輩に聞いた。」


嫌な思い出が湧き出て脳の中の溜り本能も有識者達も溺れる寸前だった。


咲との出会いは、趣味が共通の友人から「いい人を紹介して欲しいって言ってる女の子がいる」と言われ、「ヤれればいいじゃないか」と安易に考え紹介してもらった。

 

初めて会った時まず目に入って来たのが大きく綺麗な二重の瞳だった。そして可愛いとも美しいとも取れる整った顔立ちを目の前に、ただ「ヤりたい」なんて気持ちはコンコルドに乗って旅行へ行ってしまった。

そして八ヶ月の間、二人だけでピンク色の世界を貪り尽くし、咲は他の男への興味が出てしまい、その事実を悟られないようにあの手この手で僕とは上手くいかないと、電話越しに微細に震えた声で僕に別れを告げた。


「そうなんだ。何かあったの?」

「私、仕事辞めちゃったの。それに彼氏とも別れちゃった。それでちょっと話たいことがあってね。暇な日は無いの?」

そういえば、別れた後隣町の小児科のある大病院に医療事務で内定を貰ったという噂を聞いていた。付き合っていた当時、咲はまだ大学生だった。

「電話じゃダメかなあ?」

「うーん、ちょっと…」


正直これ以上本能も有識者達も記憶に浸からせたくなかった。会えばもっと記憶が噴出し本能も有識者達も溺死してしまうからだ。

また別れた後のような酷い行いはしたくない。


別れを告げられた時「終わったんだ。僕は」と思った。

そして車で練炭を焚いて死のうとした。

要因はと言えば、毎日四~五時間の残業が三ヶ月は続いていた。

それに加え、仕事の出来ない僕は毎日必ず一回はこっぴどく怒られ気力がどんどん削がれていった。
正直しんどくて今にでも辞めてやりたいと切に願っていた。

僕はとても弱い人間だった。

でも咲は、「辞めちゃダメだよ。頑張ろう。応援してるから」といつも僕を激励し抱き締めてくれていた。

それだけが心の拠り所でなんとか耐えれていた。

そんな心の中にに恋人を取り込み自分の心を再構築した人間から恋人がいなくなれば破綻する。

当たり前のことだ。

 

でも自殺は失敗だった。仕事ももう続ける気力はどこにもない。後は無いだろうと思った。そして生きることも逃げてやろうと思った。当然こんな人間なので死ぬことも逃げてしまった。

 

そして別れた次の日から会社を無断で休み続けクビになった。

そして1年過ぎて新しい職場を見つけ最近では少しずつ慣れて社員達とも少し仲良くなっていた。

恋人がいたことは夢の中の話になりかけていた所だった。


「ダメかな?」

「ちょっと考えさせて欲しい。だからまた……また電話するから。」

「わかった。待ってる。」

咲の声は堂々と振る舞っているように感じた。昔付き合っていた頃の様な甘く柔でふわふわとした雰囲気の喋り声はうっすらとしか感じ取れなかった。


そうこうしているうちに駐車場に着いた。エンジンを切り深く息を吸い吐き出してみる。震えて上手く出来ない。

もう一度深呼吸をしてみる。先程よりは少し上手くいった。

「どのぐらい間を開けようか…」

ふと頭の中にこんな言葉が浮かんでいるのに気づいた。